BLUE BLUE JAPAN RECYCLE DOWN
INTERVIEW
MUE BON
公共の場所は、文化や芸術を
促進する場所として利用されるべき
バンコクへ到着した翌日にアーティストのムボンに連絡をとってみた。CRASTY からの紹介のおかげで即答で夜に会えるか?とメッセージが帰ってきた。 場所はバンコクから少し離れた郊外の映像スタジオのような場所だった。ここで、待ち合わせ ようということだったので、現地へ向かうとドレッドにファンキーなシャツのムボンと目が合い、名乗ると迎えてくれた。そこでは友人がパーティーをしていて、紹介までしてもらった。ある程度楽しませてもらうと、 ムボンが合図してくれて、そこからムボンの車に乗ってボムの夜が始まった。 東京でも見かけるムボンのボム。その理由が行動を共にして理解できた。とにかく素早くて完成の素晴らしさは言うまでもなく、描く時の集中力が桁外れだった。
「子供の頃から絵を描くことが好きで、4 ~ 5 歳の頃から日本の漫画も大好きでした。タイでは、貧しい人々が多く、その人々が都市部に住んでいます。そのスラムで生まれました。それでも母親は本を与えてくれて、読む方法を教えてくれました。それから日本の漫画を中心に読み始めて、漫画を描くことも始めました。そして、12 歳の時にヒップホップに興味を持ち始めました。 当時はヒップホップ文化がタイで人気になり好きになっていきました。ヒップホップの映像にはグラフィティが背景に描かれていることが多く、そこに興味を持ちました。そこからグラフィティをはじめたのが約20年前で、当時20歳でした」。
INTERVIEW MUE BON
20年間の活動でムボンは計り知れない数の作品を描いてきた。 同行したときは自分の車を脚立のように扱いながら、絵を完成させていく独自のスタイルを見せてくれた。 周りとは明らかに完成度の違う作品は、どこに描かれても目を引く魅力がある。「最初の仕事は家の壁にグラフィティを描くことでした。母親はプライベートルームも作ってくれて、そこでグラフィティを描く練習をすることができました。その後に、アーティストの学校に通って、その学校で人生が大きく変わりました。元からアートが大好きで、生まれたときからアーティストになりたいと思っていました。 学校ではファインアートを学び、そこがアートの始まりの瞬間でとても感謝しています」。
ストリートで生まれたムボンが、ストリートキッズからアーティストへ昇華していくことになった学校で現在の基礎を学んでいった。その日の夜の活動を終えて、次の日にムボンのスタジオで会う約束をして解散した。翌日にホテルからムボンのスタジオまでタクシーで15 分ほどかけて向かう。大きな倉庫が並ぶ一番奥にムボンのスタジオがある。ある程度スタジオを案内してくれると、早速、今度はベスパにて出かけることになった。昨日とは違いバイクの後ろという少々ハードなスタートとなった。最初に到着したのは川沿いの小さな街だ。ムボンのステンシルもあって、ここで昼ご飯でカオマンガイをいただいた。腹ごしらえをすると、再びスポットを探しにベスパで向かった。道路沿いのポイントへ着くと早々にセットして1時間足らずで描きあげた。現在もストリートで活動を続けながら、展示も行っている。これからムボンが活動で変えようとしていることを聞いた。「これから望むことは、国際会議や民主党の会議など、街のさまざまなイベントが開催されている公共の場所は、人々に思想的な影響や創造的なインスピレーションを提供し、心の安定を促進するために設けるべきだと思っています。こうした場所は、物質的な利益を追求するための場所ではなく、人々のニーズに対応し、彼らに供給するための場所です。これらの場所は、企業や政党の利益ではなく、民主主義の原則に基づいて文化や芸術を促進するための場所として利用されるべきです」。アートいう活動を通して、少しずつ変わっていく街が世界に幾つかある。ムボンのような人が指針となっていくのだと思った。今回の旅で最もサポートしてくれたのもムボンだ。あらゆる友人たちと協力して熱量を存分に伝えてくれた。
MUE BON|ムボン
バンコクストリートカルチャーで最も活動しているグラフィティライター。スラムで育ちアートだけで現在の場所まで到達したアーティストでもあり、スタジオもバンコクにある。東京でもムボンのボムは見ることができる。
photo&text. Taishi Hikone