InstagramやTwitterで話題になっていた「花束みたいな恋をした」を観てきた。邦画の恋愛ものなんていつ以来観るのかわからなかったけど、評判が良いし、たまに著名な人の絶賛感想も流れてくるし、何より主役の男の子がイラストレーターを目指している時の描写がキツいみたいなのを目にして、自分もフリーランスの仕事をしているからどんな描写なんだろうってドキドキしながら観にいくことに。


※以下、映画「花束みたいな恋をした」の内容に触れる箇所があります。事前に内容に触れたくない方は観賞後にお読みください。また映画館に行く際はコロナウイルスの感染対策を実施し、各地域のコロナウイル感染状況などを踏まえ鑑賞のご判断をしてください。


正直な感想を書いたら絶賛している人の気分を害するかもしれないけど、自腹だし、各方面に気を使った紹介なんてステマとあんまり変わらないと思うし、自分なりの視点を入れて思ったことを書いていこうと思います。


作られ過ぎた偶然に若干興醒め。でも心に残る素敵な映画。


大学生活でどこか浮いてしまっている2人の男女、麦と絹。菅田将暉さんと有村架純さんがそれぞれ演じる2人は、ある日偶然同じように明大前駅で終電を逃してしまったことをきっかけに出会うことに。まるで自身を投影したかのような共通の趣味や嗜好を持った異性との巡り合いに2人は奇跡を感じ結ばれるも、大学生活が終わり社会人になっていく中で、あんなに同じだと感じていた2人の価値観にすれ違いが起きていき…。というのが大まかなこの映画のストーリー。多くの人の感想と同じように、鑑賞後に2人の姿が心に残り、そして自分の記憶と共に誰かに語りたくなる良い映画でした。


けれどそんな思いの傍で、気持ちがのれないところがあったのも確か。言ってしまえば、フィクションの物語は全て作られた偶然に過ぎないんだけど、“作られ過ぎた偶然” に、興醒めしてしまうところがあった。例えば、物語が始まるシーン。カップルがイヤホンで一緒に音楽を聞いていても、それは同じ音を聞いていない。音楽好きだったらそんなことはしないということを言い出す場面があるんだけど、2020年の若者がiPhoneに付属しているイヤホンを使って音楽をシェアしようとする? “同じ音を聞いているようで実際は同じ音を聞いていない” というセリフは映画全体のテーマを表していて改めて凄いなとは感じるんだけど、Bluetoothで接続するワイヤレスイヤホンが主流になって数年が経ち、もはやイヤホン同士を繋ぐケーブルすら無くなっている時代に…。それこそ劇中でワイヤレスイヤホンを交換する場面が出てくるんだけど、その後の2020年の描写(劇中では冒頭)として付属イヤホンを使うのは、それを使って言いたいことファーストな印象がした。


うるせぇよ、と言う気持ちはわかる。

けど「PARCOが閉店しても」、「SMAP×SMAPが最終回を迎えても」と、この映画自らが折々の時代性に付属するものをキーワードとして使っているなら、そこは良いのかなと思ってしまう。2020年に狙っている異性とのデートで、最初から付属されているイヤホンを使って、「聴く?」とは皆言わないんじゃないかな。iPod Pro欲しいよねって話はするかもだけど。


2人の共通言語としてセリフの中に詰め込まれたサブカルチャーに関する固有名詞も、2人の世代ではないベテラン作家がリサーチして作り上げたもの、2人の偶然性を演出するものという側面を強く感じてしまった。頻繁に語られるサブカルチャーをなぜ2人が自分達のアイデンティティとしているのか、彼らがどうそれに支えられているかの表現がなかったから。物語の序盤からほぼずっと続く2人のモノローグのどこかでその件について触れているかもしれないけれど、セリフで全て説明されても表層的な印象を強めるだけだった。


クライマックスのファミレスでのシーンも正直、偶然性高過ぎじゃん、とフィクションの世界から現実に戻されてしまった。恋愛における春をとうに過ぎた2人が、当時の自分達と同じようなカップルを見かけその姿に堪えきれなくなる場面なんだけど、そこに登場する2人がかつての主人公と全く同じような格好をして、同じ白いジャックパーセルを履いていてその姿がこちらに”同じでっせ” とわからせるように映し出される。そういうことも実際あるとは思うんだけど…。偶然を演出するなら作られすぎたものよりもっと偶然っぽいのが見たかった。それかああいう格好に白いジャックパーセルを履くべきって世代を超えて影響を与える作品が実際何かあったりするんかな。


いま触れたのは、結局作中の描写に必要な演出だったからまぁ良いかなとも思うんだけど、劇中で出てきたAwesome City Clubの入れ込みは何だったんだ…。素敵なアーティストだと思うけど、「あのファミレスのお姉さん、アーティストだったんだ」って、その偶然、普通にマーケティングだよね。その曲を聞いて劇中の2人がどうしたとか特にないもの。




二人の恋の行末に興味を持てなかった序盤から、人ごとに思えなくなった中盤以降


こんな感じで結構毒付いてしまったというか、正直途中で劇場を出ようかなとも思ったくらい、記号的なワードと、過度な偶然性、延々と続くモノローグがきつかった。(だったら小説かシナリオ読むっつーの、くらいのセリフ量)。2人が付き合って間も無い頃、圧迫面接を受けた絹を麦が地下鉄への通路で抱きしめるシーンがあるんだけど、終電間際のホームで抱き合っているカップルを見るのと同じ気持ちで、この2人の恋愛模様をこの後も追いたいとは思えなかった。そして自分も同じ集団面接を受けていて、その帰りに彼氏に抱きしめられているカップルを見たら舌打ちしたくなるかもと思った。


けれど、途中で劇場を出ずに良かったと思ったのは、それこそフワフワとして、2人だけの世界にいた2人が、次第に外の社会というものを無視できなくなり、順応しようと奮闘する場面が描かれ出してから。この頃からサブカルチャーに対して2人の向き合い方の違いも描かれていくんだけど、グッと物語に引き込まれた。この緩急や奥行きのために前半のふわふわとした軽さが必要だったのかもと納得もした。


今の自分にはパズドラしか頭に入ってこないんだよ! みたいなセリフはバチコンと全てがはまっていた気がした。


さらっと劇中でクリエイター志望と会社員、それぞれ行き詰まった人が描かれていて、麦君は中盤以降その厳しさを感じとってリアリストになっていくんだけど、その姿は人ごととは思えなくなっていた。




社会ってそういうものって諦念。というかそもそもその状況っておかしい。


このシビアな就労シーンが2人のみならず映画を観ている僕らにも提示するのが、「単価の低い仕事をこなしながら夢を追うか」、「厳しい就労環境の中で生活のゆとりが奪われ好きだったものが遠ざかっていくか」というものだと思う。


前者はクリエイターを志した人は誰もが一度は感じていると思うし、後者は学生を終えて社会人になる過程で多くの人が同じような経験をするように思う。この映画ではその解決を求めていないし(求めたら別の映画になってしまうし)、自分たちも社会ってこういうもんだよねでほとんど諦めたように受け入れてしまうけれど、やりたいことを担保に労力に対価を払わないのも、給料を担保に社員に対して厳しい就労環境を強いるのも、労働を搾取する側の都合の良い言い訳なだけで、どちらも筋が通っていない。


もちろんセンスや能力が認められるのは時間がかかるし、社員に給料を保証するのは簡単じゃないかもしれないけど、労力に関しては対価をきちんと払うべきだし、余暇を楽しむ時間がない労働が普通になっている社会っておかしい。


つい最近、数億円をかけた国家事業のコロナ感染対策アプリの開発に何度も委託が繰り返され、結局主要部分を制作する会社には何分の一かの予算しか回っていなかったというニュースがあったけど、(繰り返される委託の意味を疑問視する見方もあり、しかも結局アプリは正しく機能していなかった)日本社会の仕組みがこうなっているなら、製作の川下にいるイラストレーターの麦君の報酬が安くなるのも当然。他にも、麦君が学生生活を終える直前にその後5年で2度上がる消費税の1度目の増税があるんだけど、消費税が上がったら消費者は消費を抑えるし、企業間の取引にも消費税はかかるから(本当は麦君のデザイン料にも)、会社もコストを削減しようってなる。おまけに消費税が上がる代わりに法人税が下がっているから、企業は労働者の給料や福利厚生にお金を回さずに内部保留が増えていく。ブラック企業に心身ともに持っていかれる人は麦君だけじゃない。




映画のようなかけがえのない時間はきっと誰の心の中にもある。だからこそ

こういった労働者の搾取の問題を解決しようとしたら別の映画になるし、2019年に公開されたケン・ローチ 監督の「家族を想うとき」のように、心にずしりと重いものが残る映画になってしまう(良い映画でオススメ)。


けど「花束みたいな恋をした」では大人になる前の、ある特定の時期の男女の恋愛を描きながらも、2人の関係に変化を及ぼすものとして社会状況をきちんと描いているから、それが多くの人の心に影響を与えているんだとも思う。


という感じで、めちゃくちゃ長くなってしまったけれど、こんな風にいろんなことを語りたくなる良い映画でした。自分の思い出を振り返りたくなるのは、劇中の2人のように、かけがえのない時間が自分にもあったかも、と少し感謝したくなったから。そう思えただけで、この映画を観て良かった。


そして映画を観ている僕らには、素敵なエンディングや心地良い伏線回収も確約されていない。だからこそ、できるだけ現実にある社会のおかしさに対して声を上げていった方が良いと思う。じゃないと、これからいつ自分たちの好きなカルチャーを奪われたりするかわからないから。カルチャーがもたらしてくれた豊かな時間を誰かと共有する大切な時間も。


最後に忘れてはいけないことがあった。胡散臭いオダギリジョーさん、最高。

Masaharu Ono

通信教育で中学・高校の国語の教員免許を取得した後、海外アパレルブランドの日本代理店に就職。PRなどのバッグオフィスを担当後、フリーランスのエディター・ライターとして活動。NBAフリーク。